グランド・ブタペスト・ホテル

 

かなりよかった。好きな感じ。

ツイッターで紹介されてたのを見た時は色彩がオシャレ〜でさぞかしロマンチックでノスタルジックで文学的なお話なんだろうな〜耽美なのかな〜と思っていたが、見てみると結構違った。そのギャップについて書きます。

 当然ネタバレはありますが、物語の核心には触れてないはずなので、見る前にどんな感じか知りたいんだけど!という人の役に立ったらいいな。

 

・確かにノスタルジック。

舞台はかつて栄華を極めた最高級ホテル、グランド・ブタペスト。今は廃墟寸前。ここで休暇を過ごしていた主人公(作家、スランプ中)は、ロビーで知り合った老人がこのホテルの所有者であると知り、廃墟を買った経緯を聞き出そうとします。ホテルのだだっ広い食堂で長いディナーをとりながら語られる、かつての超一流コンシェルジュ、グスタヴ・Hと、ベルボーイ見習い、ゼロの物語とは………

このように冒頭はめっちゃノスタルジ〜!絶対切ないやつ〜〜!最後泣くかも!?(泣かなかった)という感じなんです。

 

・確かにロマンチック。

ロマンチックが何を指すかは難しいですが、ここでは「うっとりできる雰囲気」と定義しておきましょう。

雰囲気を支える基盤、色彩・美術がとにかく最高。赤と紫をメインカラーにしつつ、絢爛豪華なホテルの喧騒、ゆめゆめかわいいドーリィピンクのケーキ屋さん、不気味なお屋敷や陰鬱な雪景色が展開されていきます。

ファッションも素敵です。ホテルの制服がド紫ってありうるのかな。

眺めているだけでもわくわくさせてくれます。

 

・かつ(文学的)メッセージに溢れる

差別は絶対にアカン、そのためなら物理的ケンカも辞さない。という強い姿勢がひしひしと感じられます。

移民であるゼロに対する軍人の態度、ナチスの態度。それに徹底的に抵抗するグスタヴの姿は粋です。これぞノブレス・オブリージュ

ラストで分かるのですが、シュテファン・ツヴァイクが原作です。彼はユダヤ系の作家で、ナチスが本当に大っ嫌いだったんですよね。『ベルサイユのばら』のタネ本と言われてる小説を書いた人でもあります。ちなみに、人文主義者セヴァスチャン・カステリョの評伝である『権力と闘う良心』では宗教改革ジャン・カルヴァン(私の最推し)がミゲル・セルヴェトを処刑したことをメチャクチャ批判しました。多分ヒットラーナチスと重ねて見てたんだと思う…。

 

・でも圧倒的に「冒険活劇」

上全部の条件を満たしていながら、この作品はドタバタ・コメディです。これってすごく難しいバランスだと思うんですよね。私は物語の中盤くらいで笑いこけながら、「あ、これ…冒険活劇や!」とハッとしました。

軍人とケンカしたり、遺産相続騒動に巻き込まれたり、絵を盗んだり、刑務所で模範囚になったり、差し入れのケーキを使って脱獄したりします。閉館ギリギリの美術館で殺し屋に追われたりします。かと思うと雪山の修道院で仲間と落ち合ったり、スキーで逃げたりします。

とにかく、全体的に命を狙われています。

好きなのは死んだ仲間に黙祷を捧げようと言って、何秒か祈ったあと「OK,let's go.」と走り出すシーン。あと全世界のホテルのコンシェルジュ同士の連携プレー。

冒険活劇という言葉を出したのは、高橋葉介の『夢幻紳士』シリーズを連想したからです。青年探偵夢幻魔実也が大正〜明治くらいの不気味カワイイ日本を舞台に様々な事件を解決したりしなかったりする漫画。色々なバージョンがあってシリアスだったりギャグだったり。その中の1つが「冒険活劇編」です。魔実也の年齢もショタだったり美青年だったりするので強くオススメ。

 

 

夢幻紳士 怪奇篇 〔愛蔵版〕

夢幻紳士 怪奇篇 〔愛蔵版〕

 

 

逆に、夢幻紳士が好きな人はこの映画を気にいる可能性が高いってことですよね。

併せてお楽しみください。

ドリアン・グレイの肖像

また高校生の時の感想文シリーズ。これは高校二年生の夏休みの宿題で、ワイルド『ドリアングレイの肖像』で二本書きました。枚数制限があって苦しい感じ。光文社古典文庫シリーズですね。

 

★★「ドリアン・グレイの罪と罰」★★

人間の生活態度には美的・倫理的・宗教的の三段階があると説いたのはキルケゴールですが、ドリアン・グレイの生活はまさに美的段階にあると言えましょう。彼は大変美を愛する人です。歴史上に現れる様々な美しい品々と、それに纏わる伝説が第十一章を丸々割いて描写されています。

 また、美的段階とは単に美しさを追求する態度のことではありません。人生をただ娯楽として扱い、美しい品を含め、享楽しつくす態度を指します。彼は、(作中では非常に上品に、遠回しに表現されていますが)女と言わず男と言わず人々をたぶらかして、近づいた人間を破滅に追いやる誘惑者です。

 彼が作中で最初にその魂に罪を負ったのは、恋人のシビルが自殺した時でした。シビルはプリンス・チャーミングことドリアンとの恋によって、芝居の空虚さと現実のすばらしさに気付き、演技の能力を放棄してしまいます。ドリアンは演技しない彼女にすっかり冷めて、彼女を突き放す。その結果彼女は劇薬を煽る。その時初めて彼の肖像の表情は歪み、それ以降、肖像は彼の罪に比例して、醜く変化して行くことになります。

 しかし、シビルに冷たい態度をとり、結果的に自殺させてしまったことが、罪でしょうか。期待を裏切った恋人に対して感情的になり、つい荒々しい言葉を吐いてしまう、というのは、熱くなりやすい若者どうしの恋愛において、大して罪深い事であるとは思えません。

 では、何が彼の罪だったのか。

 それは、彼の美的生活に答えがあるように思います。ヘンリー卿に毒された彼が、シビルの死以後送ることになる、快楽に身を任せた生き方。そこに彼の罪があったのです。

 幼くかわいらしい顔のまま年齢を重ね、社交界中の憧れの的となったドリアンでしたが、その身には常に悪事の噂が付きまといます。その彼の秘密を垣間見るのが、バジルです。バジルは彼の噂を気にかけて、それが事実かどうか確かめるためにドリアンに会いに向かいますが、肖像の秘密を知って戦慄します。そして彼に悔い改めを迫るのです。そのバジルを、ドリアンは殺しました。その後、ドリアンは以前の友人のアランを脅迫してバジルの死体を消し、田舎で村娘のヘティと人生をやり直そうとします。

 ドリアンの罪は、行動ではありません。人間を人間と扱わないその態度です。

 シビルに対する彼の罪は、彼女をただ演技の才能として扱ったことでした。彼は、彼女自身の人格や、彼女からドリアンへ向けられた愛を無視し、彼女を、自分を楽しませるだけの存在として愛しました。シビルがやっと、自分に割り当てられた役柄から抜け出して、シビル自身の人生に目覚めた瞬間、彼女はドリアンにとって無意味な存在となり、捨てられたのです。またアランについても、優しい言葉で説得しておきながら、その後死体処理の罪悪感から自殺した彼を顧みず、完全に道具として扱っています。

 彼が人間として扱わないのは、他人だけではありません。彼にとっては、自分自身さえ、人生を楽しむための道具にすぎませんでした。そうでなければ、面白半分に自分の魂を汚すなどということができるでしょうか。

 最終章である第二十章には、彼の苦悩が綴られていますが、その苦悩すら彼は楽しんでいるように見えます。過去の罪で汚れた魂に苦しむ自分に、酔っているだけなのです。

 「日々の中で罪を犯す度に、すばやく確実に罰を受けていた方がよかったのだ。罰に は浄化の働きもある。『我らの罪を許したまえ』ではなく、『邪悪さゆえにわれらを打ちたまえ』のほうを公正なる神への祈りの言葉にするべきだ。」(四一二頁)

このドリアンの台詞は、彼の態度をよく表しています。彼は、バジルを殺めたことも、アランを利用し追いつめたことも、さして後悔していません。心の底から悔い改める気もありません。彼の目には常に美しい未来が映っています。

 彼の罪は、自分の人生をお芝居のように客観し、他人と自分の人格を道具にしたことでした。正に悪の華と散ったドリアンに、それでもバジルは語りかけるでしょう。

 「遅すぎる事なんてないよ、ドリアン。一緒にひざまずこう。そしてお祈りを思い出せるかどうかやってみよう。」(二九六頁)

 

 

★★「ワイルドとバジル」★★

 ドリアンにとっては美と、それを支える若さこそすべてだったのです。彼をそのように教育したヘンリー卿は享楽的ではありますが、彼ほど美を愛してはいなさそうです。彼はただ美少年が自分の影響によって美に魅了され、人生を狂わされる様を見るのが楽しかったのでしょう。

 ドリアンの美への執着は、著者、オスカー・ワイルドから受け継がれているものであると推測されます。序文にて著者自身が、美を賞賛するようなことを書いています。美しいものを分析して余計な意味を見いだすことに、嫌悪する著者の姿が見えてくるようです。しかし私は、この序文に違和感を覚えました。この小説には美しい以外の意味が含まれている。それを隠すために著者は序文を書いたのではないか?

 そこで、私は敢えて、醜い解釈をしてみようと思います。

 私が気になったのは、著者は誰に自分をなぞらえて書いたのか、ということです。解説で触れられている「画家の序文」によれば、ワイルドが実際に経験した画家の友人宅での出来事をもとに、この小説が書かれたようです。それなら、ワイルドはヘンリー卿の位置からドリアンを見ていることになります。しかし、この序文は捏造されたものでその友人は実在しない、という見解もあるそうで、私はそちらの意見を採りたい。なぜなら私は、ワイルドはバジルだと思うからです。

 ヘンリー卿は、洒落ていて、知的な会話を好むイギリス社交界の紳士です。バジルはそれとは対照的に、夜会服を嫌うさえない画家で、ヘンリー卿がドリアンと親しくなるのと反対に彼と疎遠になっていきます。彼はヘンリーやバジルと比べれば、かなり平凡な人間だと言えるでしょう。

 私は、ヘンリー卿はワイルドがこうありたいと望む姿だったのではないかと思います。だから「画家の序文」を書き、ヘンリーこそ著者の投影であると読者に思い込ませたのです。

 しかし、ヘンリーは意外にも話の本筋には大きな影響を与えません。彼は登場回数こそ多いものの、享楽的な生き方をドリアンに示唆する道案内に過ぎません。逆にバジルは出番は少ないですが、中盤でドリアンの秘密を知って殺され、その結果ドリアンは、魂に大きな罪を背負うことになります。

 神様以外にドリアンの魂を見たのは、バジルだけでした。それはつまり、神と同じ視点で物語を見る著者のことではないでしょうか。

 バジルは殺される寸前までドリアンを崇拝していました。罪を悔い改めるように勧めており、彼のことを心配していました。ワイルドの気持ちが、ドリアンの美をただ愛でるだけであったヘンリー卿よりも、彼を思いやるバジルの方に近かったとしたら、物語の登場人物に深く恋する自分の偽装を図ったという考え方もできるはずです。

 ワイルドは、美しいものを愛しつつも、それらにのめり込まないでクールな態度をとるヘンリー卿のようでありたいと願っていて、また実際そのように振る舞っていたようです。しかし実際の彼は、美しいものに心底恋し、その魂まで愛するような情熱的な性格だったのです。そして、それを隠したがった。

 そう考えると、この悲惨な物語の結末を著者自身も大変悲しんだのではないかと思われてきます。美しい顔が歪む最後を深く悲しみながら、それでも彼を紙の上で殺したとしたら、彼はやはり序文にある通り、物語に美以外の意味を介入させたくなかったに違いありません。美しいドリアンを醜く哀れに殺すことで、物語の美しさを極めたのです。そしてそのワイルドの悲しみこそが、この物語に織り込まれている、美以外の意味なのです。

 物語と、序文、解説から、オスカー・ワイルドという人間を探りましたが、これも無粋なことかもしれません。序文を引用すると、

「芸術が映し出すものは、人生でなく、その観客である。」

物語に美しさ以外の意味、著者の断片を見てしまうのは、観客である私自身がそれを求めるからです。余計な詮索をするものではありませんよ、と、ワイルドに窘められてしまいそうです。

 

 

山月記

高校1年だか2年の時に、現代文の教科書に載っていた『山月記』を読んで中島敦にはまった。授業内でリアクションペーパーのようなものを提出するのだが、そこに長々と考察を書いたら先生にずいぶん喜ばれた。お蔵入りさせておくのも勿体ないので、ここに載せてみる。

(最初をカットしたのでいきなり始まります)

 

 

 

 読み進める中で疑問に思ったことがありました。この文章は三人称の形式で書かれており、地の文はだれの主観でもないことになっていますが、その地の文で、虎=李徴を一度も「李徴」と表記していないことです。李徴が発言する際などには、「李徴の声が答えて言う」などと書き、けして「李徴が答えて言う」とは書いていません。この書き方はなんだかそっけなく、冷たく感じられたので違和感を持ったのでした。

 この物語は、中島敦が中国の古典「人虎伝」をもとに書いたものだと授業にて先生に伺ったので、そちらを読んでみることにしました。(図書館にて複写を取り寄せました。)「人虎伝」には、二つバージョンがあり、一つはおおもとの伝承に近いシンプルなもの、もう一つは各所に脚色などがあり、李徴作の詩が挿入されているもので、中島敦が直接参照したのは後者であるようです。便宜上ここでは前者を1、後者を2とします。

 読んでみると、確かに両者とも、虎となった李徴を直接「李徴が〜」とは書いている箇所はありませんでした。しかしもとの作品の表記にそこまでこだわる必要があるのでしょうか。「山月記」には、1にも2にもない内容が盛り込まれている部分(李徴の内心の告白など)、2の内容が削られている部分(李徴が虎となった因果など)、2の内容の順序が入れ替えられている部分(李徴は2では妻子への援助の願いをした後、詩を伝えてくれるよう頼んでいる)などが多くあります。それだけ大きな改変をしておいて、細かな表記においては原文のままを採用したというところに、著者のこだわりのようなものを感じました。

  そのこだわりが書かれていたのが同著者の小説『李陵』です。『李陵』は「山月記」と同じく中国の古典をもとに書かれており、漢の武帝の時代の将軍・李陵、おなじく将軍・蘇武、李陵の弁護をして宮刑に処せられる太史令・司馬遷の三人を軸としています。

 司馬遷は中国の有名な歴史書である「史記」を書いた人物です。「李陵」の中に、司馬遷が「史記」を書く際、文章を推敲する場面があるのですが、そこに「山月記」の表記の理由ともとれることが書いてありました。

 司馬遷は父の願望であった「史記」の完成のため筆をすすめますが、項羽とその恋人・虞美人についての項を書いているとき、自分の項羽への感情移入に気付き、不安を覚えます。

 

ともすれば、項羽が彼に、或はかれが項羽にのり移りかねないのである。

(略)

これでいいのか?と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいのものだろうか?彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか?異常な想像的資格をもったものでなければ到底不能な記述であった。彼は時に「作ル」ことを恐れるのあまり、既に書いた部分を読み返してみて、それがあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。これで「作ル」ことになる心配はない訳である。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽項羽でなくなるではないか。項羽始皇帝も楚の荘王もみんな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、なにが「述べる」だ?「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳には行かない。

(「李陵・山月記中島敦著 新潮文庫 96頁〜97頁より引用)

 

 司馬遷は、モットーとしてきた「述ベル」ことについて悩んでいます。「作ル」と「述ベル」はどうちがうのか。これは中島敦が自らの作品と向かい合う際の気持ちが反映されているのではないでしょうか。

 中島敦はもともと、ただ「述ベル」つもりで「山月記」を書き始めたわけではなかったのだと思います。「述ベル」ことはすでに1と2という文章がしてしまっているのだから、彼はそれをただ受け取ればよかったのです。しかし原文(おそらく2、もしくは両方)を読む彼の中に、李徴という人物が、「述べ」られていること以上の質感をもっていわば「のり移」ってきたのではないでしょうか。ちょうど司馬遷項羽がのり移り、項羽司馬遷がのり移ったように

 つまり、原文から読み取られた事項が再構成され、新たな李徴が生まれたのです。彼の中で、李徴はすでに原文とは違う人間になってしまった。自分の中にあるこの人間を原文のままにしておくことは「述ベル」精神に反するものであるゆえ、かれは「山月記」を書き始めたのでしょう。

 しかし李徴という人間が彼の中で「作」られたものであったとしても、「述ベル」精神を捨てたくはなかった。そのため原文の、李徴をあくまで虎として表記するやり方へこだわったのではないでしょうか。そこにいるのは、飽くまで完全な人のからだを持った李徴ではなくただの虎なのだから。 

 そう考えると、この書き方は「山月記」に漂う悲しさや切なさを、いっそう深めるものなのではないかと思えてきます。