山月記

高校1年だか2年の時に、現代文の教科書に載っていた『山月記』を読んで中島敦にはまった。授業内でリアクションペーパーのようなものを提出するのだが、そこに長々と考察を書いたら先生にずいぶん喜ばれた。お蔵入りさせておくのも勿体ないので、ここに載せてみる。

(最初をカットしたのでいきなり始まります)

 

 

 

 読み進める中で疑問に思ったことがありました。この文章は三人称の形式で書かれており、地の文はだれの主観でもないことになっていますが、その地の文で、虎=李徴を一度も「李徴」と表記していないことです。李徴が発言する際などには、「李徴の声が答えて言う」などと書き、けして「李徴が答えて言う」とは書いていません。この書き方はなんだかそっけなく、冷たく感じられたので違和感を持ったのでした。

 この物語は、中島敦が中国の古典「人虎伝」をもとに書いたものだと授業にて先生に伺ったので、そちらを読んでみることにしました。(図書館にて複写を取り寄せました。)「人虎伝」には、二つバージョンがあり、一つはおおもとの伝承に近いシンプルなもの、もう一つは各所に脚色などがあり、李徴作の詩が挿入されているもので、中島敦が直接参照したのは後者であるようです。便宜上ここでは前者を1、後者を2とします。

 読んでみると、確かに両者とも、虎となった李徴を直接「李徴が〜」とは書いている箇所はありませんでした。しかしもとの作品の表記にそこまでこだわる必要があるのでしょうか。「山月記」には、1にも2にもない内容が盛り込まれている部分(李徴の内心の告白など)、2の内容が削られている部分(李徴が虎となった因果など)、2の内容の順序が入れ替えられている部分(李徴は2では妻子への援助の願いをした後、詩を伝えてくれるよう頼んでいる)などが多くあります。それだけ大きな改変をしておいて、細かな表記においては原文のままを採用したというところに、著者のこだわりのようなものを感じました。

  そのこだわりが書かれていたのが同著者の小説『李陵』です。『李陵』は「山月記」と同じく中国の古典をもとに書かれており、漢の武帝の時代の将軍・李陵、おなじく将軍・蘇武、李陵の弁護をして宮刑に処せられる太史令・司馬遷の三人を軸としています。

 司馬遷は中国の有名な歴史書である「史記」を書いた人物です。「李陵」の中に、司馬遷が「史記」を書く際、文章を推敲する場面があるのですが、そこに「山月記」の表記の理由ともとれることが書いてありました。

 司馬遷は父の願望であった「史記」の完成のため筆をすすめますが、項羽とその恋人・虞美人についての項を書いているとき、自分の項羽への感情移入に気付き、不安を覚えます。

 

ともすれば、項羽が彼に、或はかれが項羽にのり移りかねないのである。

(略)

これでいいのか?と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいのものだろうか?彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか?異常な想像的資格をもったものでなければ到底不能な記述であった。彼は時に「作ル」ことを恐れるのあまり、既に書いた部分を読み返してみて、それがあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。これで「作ル」ことになる心配はない訳である。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽項羽でなくなるではないか。項羽始皇帝も楚の荘王もみんな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、なにが「述べる」だ?「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳には行かない。

(「李陵・山月記中島敦著 新潮文庫 96頁〜97頁より引用)

 

 司馬遷は、モットーとしてきた「述ベル」ことについて悩んでいます。「作ル」と「述ベル」はどうちがうのか。これは中島敦が自らの作品と向かい合う際の気持ちが反映されているのではないでしょうか。

 中島敦はもともと、ただ「述ベル」つもりで「山月記」を書き始めたわけではなかったのだと思います。「述ベル」ことはすでに1と2という文章がしてしまっているのだから、彼はそれをただ受け取ればよかったのです。しかし原文(おそらく2、もしくは両方)を読む彼の中に、李徴という人物が、「述べ」られていること以上の質感をもっていわば「のり移」ってきたのではないでしょうか。ちょうど司馬遷項羽がのり移り、項羽司馬遷がのり移ったように

 つまり、原文から読み取られた事項が再構成され、新たな李徴が生まれたのです。彼の中で、李徴はすでに原文とは違う人間になってしまった。自分の中にあるこの人間を原文のままにしておくことは「述ベル」精神に反するものであるゆえ、かれは「山月記」を書き始めたのでしょう。

 しかし李徴という人間が彼の中で「作」られたものであったとしても、「述ベル」精神を捨てたくはなかった。そのため原文の、李徴をあくまで虎として表記するやり方へこだわったのではないでしょうか。そこにいるのは、飽くまで完全な人のからだを持った李徴ではなくただの虎なのだから。 

 そう考えると、この書き方は「山月記」に漂う悲しさや切なさを、いっそう深めるものなのではないかと思えてきます。