ドリアン・グレイの肖像

また高校生の時の感想文シリーズ。これは高校二年生の夏休みの宿題で、ワイルド『ドリアングレイの肖像』で二本書きました。枚数制限があって苦しい感じ。光文社古典文庫シリーズですね。

 

★★「ドリアン・グレイの罪と罰」★★

人間の生活態度には美的・倫理的・宗教的の三段階があると説いたのはキルケゴールですが、ドリアン・グレイの生活はまさに美的段階にあると言えましょう。彼は大変美を愛する人です。歴史上に現れる様々な美しい品々と、それに纏わる伝説が第十一章を丸々割いて描写されています。

 また、美的段階とは単に美しさを追求する態度のことではありません。人生をただ娯楽として扱い、美しい品を含め、享楽しつくす態度を指します。彼は、(作中では非常に上品に、遠回しに表現されていますが)女と言わず男と言わず人々をたぶらかして、近づいた人間を破滅に追いやる誘惑者です。

 彼が作中で最初にその魂に罪を負ったのは、恋人のシビルが自殺した時でした。シビルはプリンス・チャーミングことドリアンとの恋によって、芝居の空虚さと現実のすばらしさに気付き、演技の能力を放棄してしまいます。ドリアンは演技しない彼女にすっかり冷めて、彼女を突き放す。その結果彼女は劇薬を煽る。その時初めて彼の肖像の表情は歪み、それ以降、肖像は彼の罪に比例して、醜く変化して行くことになります。

 しかし、シビルに冷たい態度をとり、結果的に自殺させてしまったことが、罪でしょうか。期待を裏切った恋人に対して感情的になり、つい荒々しい言葉を吐いてしまう、というのは、熱くなりやすい若者どうしの恋愛において、大して罪深い事であるとは思えません。

 では、何が彼の罪だったのか。

 それは、彼の美的生活に答えがあるように思います。ヘンリー卿に毒された彼が、シビルの死以後送ることになる、快楽に身を任せた生き方。そこに彼の罪があったのです。

 幼くかわいらしい顔のまま年齢を重ね、社交界中の憧れの的となったドリアンでしたが、その身には常に悪事の噂が付きまといます。その彼の秘密を垣間見るのが、バジルです。バジルは彼の噂を気にかけて、それが事実かどうか確かめるためにドリアンに会いに向かいますが、肖像の秘密を知って戦慄します。そして彼に悔い改めを迫るのです。そのバジルを、ドリアンは殺しました。その後、ドリアンは以前の友人のアランを脅迫してバジルの死体を消し、田舎で村娘のヘティと人生をやり直そうとします。

 ドリアンの罪は、行動ではありません。人間を人間と扱わないその態度です。

 シビルに対する彼の罪は、彼女をただ演技の才能として扱ったことでした。彼は、彼女自身の人格や、彼女からドリアンへ向けられた愛を無視し、彼女を、自分を楽しませるだけの存在として愛しました。シビルがやっと、自分に割り当てられた役柄から抜け出して、シビル自身の人生に目覚めた瞬間、彼女はドリアンにとって無意味な存在となり、捨てられたのです。またアランについても、優しい言葉で説得しておきながら、その後死体処理の罪悪感から自殺した彼を顧みず、完全に道具として扱っています。

 彼が人間として扱わないのは、他人だけではありません。彼にとっては、自分自身さえ、人生を楽しむための道具にすぎませんでした。そうでなければ、面白半分に自分の魂を汚すなどということができるでしょうか。

 最終章である第二十章には、彼の苦悩が綴られていますが、その苦悩すら彼は楽しんでいるように見えます。過去の罪で汚れた魂に苦しむ自分に、酔っているだけなのです。

 「日々の中で罪を犯す度に、すばやく確実に罰を受けていた方がよかったのだ。罰に は浄化の働きもある。『我らの罪を許したまえ』ではなく、『邪悪さゆえにわれらを打ちたまえ』のほうを公正なる神への祈りの言葉にするべきだ。」(四一二頁)

このドリアンの台詞は、彼の態度をよく表しています。彼は、バジルを殺めたことも、アランを利用し追いつめたことも、さして後悔していません。心の底から悔い改める気もありません。彼の目には常に美しい未来が映っています。

 彼の罪は、自分の人生をお芝居のように客観し、他人と自分の人格を道具にしたことでした。正に悪の華と散ったドリアンに、それでもバジルは語りかけるでしょう。

 「遅すぎる事なんてないよ、ドリアン。一緒にひざまずこう。そしてお祈りを思い出せるかどうかやってみよう。」(二九六頁)

 

 

★★「ワイルドとバジル」★★

 ドリアンにとっては美と、それを支える若さこそすべてだったのです。彼をそのように教育したヘンリー卿は享楽的ではありますが、彼ほど美を愛してはいなさそうです。彼はただ美少年が自分の影響によって美に魅了され、人生を狂わされる様を見るのが楽しかったのでしょう。

 ドリアンの美への執着は、著者、オスカー・ワイルドから受け継がれているものであると推測されます。序文にて著者自身が、美を賞賛するようなことを書いています。美しいものを分析して余計な意味を見いだすことに、嫌悪する著者の姿が見えてくるようです。しかし私は、この序文に違和感を覚えました。この小説には美しい以外の意味が含まれている。それを隠すために著者は序文を書いたのではないか?

 そこで、私は敢えて、醜い解釈をしてみようと思います。

 私が気になったのは、著者は誰に自分をなぞらえて書いたのか、ということです。解説で触れられている「画家の序文」によれば、ワイルドが実際に経験した画家の友人宅での出来事をもとに、この小説が書かれたようです。それなら、ワイルドはヘンリー卿の位置からドリアンを見ていることになります。しかし、この序文は捏造されたものでその友人は実在しない、という見解もあるそうで、私はそちらの意見を採りたい。なぜなら私は、ワイルドはバジルだと思うからです。

 ヘンリー卿は、洒落ていて、知的な会話を好むイギリス社交界の紳士です。バジルはそれとは対照的に、夜会服を嫌うさえない画家で、ヘンリー卿がドリアンと親しくなるのと反対に彼と疎遠になっていきます。彼はヘンリーやバジルと比べれば、かなり平凡な人間だと言えるでしょう。

 私は、ヘンリー卿はワイルドがこうありたいと望む姿だったのではないかと思います。だから「画家の序文」を書き、ヘンリーこそ著者の投影であると読者に思い込ませたのです。

 しかし、ヘンリーは意外にも話の本筋には大きな影響を与えません。彼は登場回数こそ多いものの、享楽的な生き方をドリアンに示唆する道案内に過ぎません。逆にバジルは出番は少ないですが、中盤でドリアンの秘密を知って殺され、その結果ドリアンは、魂に大きな罪を背負うことになります。

 神様以外にドリアンの魂を見たのは、バジルだけでした。それはつまり、神と同じ視点で物語を見る著者のことではないでしょうか。

 バジルは殺される寸前までドリアンを崇拝していました。罪を悔い改めるように勧めており、彼のことを心配していました。ワイルドの気持ちが、ドリアンの美をただ愛でるだけであったヘンリー卿よりも、彼を思いやるバジルの方に近かったとしたら、物語の登場人物に深く恋する自分の偽装を図ったという考え方もできるはずです。

 ワイルドは、美しいものを愛しつつも、それらにのめり込まないでクールな態度をとるヘンリー卿のようでありたいと願っていて、また実際そのように振る舞っていたようです。しかし実際の彼は、美しいものに心底恋し、その魂まで愛するような情熱的な性格だったのです。そして、それを隠したがった。

 そう考えると、この悲惨な物語の結末を著者自身も大変悲しんだのではないかと思われてきます。美しい顔が歪む最後を深く悲しみながら、それでも彼を紙の上で殺したとしたら、彼はやはり序文にある通り、物語に美以外の意味を介入させたくなかったに違いありません。美しいドリアンを醜く哀れに殺すことで、物語の美しさを極めたのです。そしてそのワイルドの悲しみこそが、この物語に織り込まれている、美以外の意味なのです。

 物語と、序文、解説から、オスカー・ワイルドという人間を探りましたが、これも無粋なことかもしれません。序文を引用すると、

「芸術が映し出すものは、人生でなく、その観客である。」

物語に美しさ以外の意味、著者の断片を見てしまうのは、観客である私自身がそれを求めるからです。余計な詮索をするものではありませんよ、と、ワイルドに窘められてしまいそうです。